読書感想文23「マルクスの経済学説」(カウツキー、マルクスの代弁者)

マルクス主義教皇カウツキー。

この方の書かれた「マルクスの経済学説」なのですが、

付箋だらけになりましたw

マルクス資本論を凝縮して、説明しているので当たり前

と言えば、そうなのですが。)

少し前のブログでも触れています。

takahire-hatene.hatenablog.com

 

今回も一部分の感想です。

カウツキー曰く資本論で最も重要な部分です。以下参照です。

「われわれは、今一人の陶工と一人の農夫とを仮定しよう。彼らは、以前にはひとつのインドの共産主義的な村落共同体の構成員であったが、後には別々の商品生産者になったとしよう。前者[共産主義的な村落共同体]の場合、この二人は同じように共同体のために労働する。つまり一方は、共同体に陶器を提供し、他方は共同体に農作物を提供する。そして一方が農作物への彼の分け前を受け取り、他方が陶器の分け前を受け取る。後者[商品生産]の場合には、両社はそれぞれ独立して自分の私的労働を遂行するが、両者はそれぞれ、自分のためばかりでなしに、他人のためにも(おそらく以前と同じ程度に)労働するのである。そして彼らは自らの生産物を交換し、可能ならば一方は以前に得られたのと同じ量の農作物を獲得し、他方も以前にえられたのと同じ量の陶器を獲得するだろう。その点では、本質的に何も変わっていないように見える。だが、この二つの過程は相互に根本的に異なったものになる。

 前者の場合には、両者の異なった労働を結合し、一方を他方のために労働させることと引き換えに、一方に他方の労働生産物への自らの分け前を直接に与えるものが社会であったということに、両者は即座に気付くだろう。後者の場合には、両者は外見的には自分のために労働しているため、この両者が他方の生産物を手に入れる方法が自らの労働の社会的性格によるものとは見えずに、生産物の特性そのものによっているかのように見えるのである。かくして、今や陶工も農夫ももはや相手のために労働しているようには見えないのであるから、製陶労働も農作業ももはや社会にとって必要な労働でないかのように見えるのである。その結果、陶器と農作物の内部には何か神秘的な性質が宿っており、その性質のために一定の比率での交換が引き起こされたかのように見えるのである。(中略)

 マルクスは、これを「労働生産物が商品として生産されるや否や、この労働生産物に付着するがゆえに、商品生産と切り離すことのできない物神崇拝」と命名したのである。

 このような商品の物神的性格を ーそしてわれわれが後に見るように、資本の物神的性格をもー 最初に認識した人は、マルクスである。商品の性質についての認識を困難にさせるのは、このフェティシズム(物神崇拝)なのである。否、このフェティシズムが克服されないかぎり、商品の性質についての認識を行うことはできないのである。つまり、商品の物神的性格を認識することなしには、商品の価値を完全に理解することが不可能であるということなのである。したがって、「商品の物神的性格とその秘密」という章は『資本論』の中のもっとも重要な章であるとわれわれは考えている。それゆえ、『資本論』の読者は特別な注意をこの章に払う必要がある。だが、この賞はマルクスの学説の反対者によってはもとより、その擁護者によってすらも多くの場合ほとんど完全に無視され続けているのである。

(私は無視(理解できない)した側です!物が神になるみたいな日本語が良くないかもしれないけど、要するに労働が持つ社会的な役割や、社会の中の自分のポジションみたいなものが、失われ、商品だけが全てになる?みたいな感じでしょうか。「商品」って言うと値段とか性能とかコスパみたいな話に脳みそがつながってくるんですけど、その脳みその状態が良くないのだと思います。「商品生産」、「労働」ってものから、公的な・社会的な概念が喪失してしまうことは良くないのだと思います。脳を取り戻せ!)

 

「同一賃金同一労働」について考える。

一時期、よく言われていたように思う

「同一賃金同一労働」

最近はあまり聞かない気がします。

 

素直に考えますと、同じことをやって、賃金が異なるのは

緊急事態だと思いますw(特に、賃金が低い側では、、、)

 

昔の私は、「企業が、人件費を安くするための方便なんだろうなあ。」

みたいな考えが頭にあり、同一賃金同一労働に否定的でした。

 

しかし、現在の私は、「労働者の間に、格差を設けることで、企業が労働者を分断して、ヒエラルキーのようなものを作り、統治がしやすくなり、結局、企業の利益にしかならない。」

と思うようになりました。

 

空想の世界ですが、首にならなくて、賃金が同じならば、

それは働くのが損な世界になると思うので、

「知識の囲い込みや、仕事の取り合い」に対して、逆向きの力が働くでしょう。

それはいわゆる、「組織力」だと私は思うのですが、

今日、我々は味方同士の殺し合いを余儀なくされますw

 

同一賃金同一労働によって、連帯が生まれると思います。

そして、賃金アップなどの目標も可視化されると思います。

最低賃金などが分かりやすいと思います。)

全て、西洋が正しいとは思いませんが、労働組合はネオジャパン的な新しい形の模索が必要だと思います。

読書感想文22「恐竜の道を辿る労働組合」

タイトルに惹かれて、読んでみました。

(恐竜みたいに大きくなりすぎて、隕石みたいな環境の変化に対応できずに滅ぶ?!みたいなのを想像していましたが、どちらかと言うと、座して死を待つの方が近いようにも思いました。自分もブログ書くと、タイトル詐欺したくなるから許す!)

 

以下参照です。

「企業経営者はその行動の結果が業績に表れるから、思い違いを悟る機会を持ちえる。政治家は選挙で落選した時、自らの驕りに気づく場合が多い。ところが労組リーダーは外部的な業績評価にも選挙にも晒されないので、独善に陥る可能性が非常に高い。(中略)労組リーダーたちと長い間付き合ってきた日本経団連事務局長の一人は次のように話している。「社会も企業も最近30年で大きく変わったのに、労組は、組織の構造も内部の空気も、驚くほど旧態依然としている。それに幹部は、相変わらず、金使いが荒い。多少、意地悪く言えば、貴族の御曹司か孫を見ているような感じだ」」

(我々は、企業の上層部というと、楽してるようにも感じるが、当然、業績がダイレクトに来るわけで、困難に対処したり、非常な決断したりはやっている人たちなのだ。そのような人種と渡り合うことを考えた時に、労組の幹部というのは非常に頼りない。)

 

「(前略)いま、日本の社会ではありとあらゆる分野においてエゴが充満している。その結果、あらゆる分野において、無理をしないことがいいことだいうふうにされていて、そういう自分中心の無理をしないという社会現象となってきていて、それが社会のあらゆるものに対する活力を失わせておるのではないかなという気がしている。それがいまの危機的現象を引き起こしている。ありとあらゆる分野においてそうだと思うが、労働組合がいろんな運動をする時の一番根底、深層みたいなところにそれがあるんじゃないかなという気がしている。日本国民の意識の中で、物の豊かさを得る代わりに、心の豊かさ、倫理観、志の力というものを失ってくるという結果となって、活力というものが、特に労働組合運動の中においても、失われてきたというのが一つの大きな現象ではないか。

 正しい方向を示しても、活力のないところにはエネルギーがない。だから、労働組合運動を通じて、活力をどうわが国の社会に吹き込んでいくかということがないといけない。

 また、弱さを持っている人間の方が、そういうモラルとか道徳観、あるいは心の豊かさに対する憧れというものを、むしろ弱者であるがゆえにこそ持っているのではないか。」

中坊公平先生(元弁護士連合会会長)の意見。現在社会で、真剣に賢明に生きている人というのは中々出会えないと思う。それこそ、がんの方の闘病記とか、全身が不便な障害者の方の本とかを読まないと生きることの尊さ、大変さ、素晴らしさは見えてこないと思う。そのような状況では必然として、命の軽視、他者の軽視、そして自己の利益の追求が始まるのだと思う。)

 

むむむ、って感じですが、私がハテナで面白いと思うブログを書く方は、

賢明に必死に生きてる方なので、自分が良いと思う生き方をしたいですね。

 

マルクスの考える革命(現実的な資本主義への適応)

マルクスは窮乏の中に窮乏を見たのではなく、その胎内に生まれてくるより良い未来の胚芽をも見たのであった。つまり、彼は工場制度を「非難したり」、「弾劾した」のではなく、それを「研究」したのである。したがって、彼にとって問題なのは「道徳的判断」ではなく、「研究」である。それだからこそ、彼は、近代的工場制度の革命的側面を最初に認識した先駆者ロバート・オーウェンにわれわれの注意を促したのであった。したがって、われわれもまた、近代的工場制度の革命的側面を次のように認識しなければならない。」

こちらは、「マルクス主義の法王(教皇)」と呼ばれるカウツキーの言葉です。

教皇が、イエスキリストの代理人と呼ばれるので、それに倣っているのでしょう。)

マルクスの経済学説(カウツキー)」より参照しています。

私の読めなかった資本論の世界が広がっていますw

 

 

上記の「革命的側面」の続きです。

「(前略)近代的生産様式は、むしろ社会のあらゆる階層をかき混ぜ混交し、不断の運動状態に置くような渦の如きものである。一切の伝統的な生産関係とともに、伝統的な先入観もまた破壊される。だが、それに代わる新しい生産関係それ自体も少しも固定的なものでなく、たえざる変動に委ねられている。したがって、次々と新しい発明や労働方法が現れ、大量の資本や労働がひとつの生産部門から他の生産部門に、ひとつの国から他の国に絶え間なく移動する。こうして、生産関係の固定制やそれに対する一切の信仰といったものが消滅することになる。また保守的要素は取り除かれ、農民は今日歴史的動力が集中している大都市に追いやられる。だが、彼らはそこで運動を妨害するのではなく、運動に加担する。他方、夫人と児童は工場に引き込まれ、ブルジョア的家族の保守的要素は解体される。そして家事を行う主婦は、生きるために闘う職業的な婦人労働者になる。」

(資本主義が巻き起こす革命。旧秩序の解体。陳腐化。そして、その上に作った制度すらも、変動する。永遠の不安定。無限に続く合理化。終わらない悪夢。まさに我々の生きる現在です。)

 

そして、革命の中にある種の希望が見えてきます。

「今やわれわれの眼前で進行しているこうした古いものの完全な解体の中に、すでに新しいものの胚芽が現れているのである。

 長期にわたる一面的に偏った労働の結果、生年労働者の白痴化の増大が生じた。そのために、すべての工業国はこれやあれやの形態で初等教育を労働の絶対的条件と宣言せざるをえなくなった。それ以来、工場で労働する児童もまた正規の通学児童と同様に、否むしろ彼ら以上により良くかつより容易に就学しているという事実が見いだされるようになっている。ある工場監督官は、つぎのように主張している。「事態は簡単である。学校に半日しかいない生徒たちは、つねに新鮮であって、ほとんど何時でも授業を受けいれることができ、また受けいれようとしている。半労半学の制度は、労働と授業との各々を他方から見れば休息および気晴らしたらしめ、したがって児童にとっては、両者の一方を中断なくつづける制度よりもはるかに適切である」(マルクス資本論』第一巻、608ー9頁)、と。

 マルクスはこれに次のように付言している。「詳しいことはロバート・オーウェンを研究すればわかることだが、将来の教育 ー社会的生産を増大するための一方法としてのみならず、全面的に発達した人間を生産するための唯一の方法として、特定の年齢以上のすべての児童のために生産的労働を知育および体育と結びつけるであろうところの、将来の教育ー の萌芽は、工場制度から発生したのである。(マルクス資本論』第一巻、609頁)」」

(半労半学の制度と聞いて、私が思い浮かべたのは「松下村塾」。ここでは、野良仕事をしながら松陰先生と共に勉強していた様子。その効果は、1年半の教育で、維新の原動力となる人材を多数輩出した。ずっと仕事(パソコン)してると脳が、仕事を拒否する。その辺走りたくなる。)

 

カウツキーさんの話はとても分かりやすいです。

そして、マルクスに対する尊敬の念があふれています。

そして私のように、マルクスのおもしろ悪口を探すのではなくて、

マルクスを正確に理解していると思います。

アンパンマンの秘密「愛と勇気だけが友達?」

最近の読書傾向としましては、「資本論」を読むというのが中心になっています。

ただ、そればかりだと飽きてしまいますので、「日本の左翼」関係の本を読むことが多いです。北一輝、池上先生などなど。

そんな流れで福島みずほ先生(社民党)の本を読んでみることにしました。対談集のような本なのですが、その中にやなせたかし先生(アンパンマン)との対談がありました。どんなお花畑な対談がされるのでしょうか?w

takahire-hatene.hatenablog.com

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憲法を手に格差と戦争をくいとめよう」wという本ですが、私の常識が破壊されるようなことがのっていました。

以下参照です。

 

やなせ あのテーマソングについて、うちへ投書が来るのです。「愛と勇気だけが友達で、あとの人たちは友達ではないのですか」と。それは、普段はみんな友達ですが、自分が戦うときには誰かをあてにしてはいけないんです。戦う時は、そして死ぬ時は、自分1人だけ。友達は愛と勇気だけだと。だから、あとの人は友達でないという意味ではないんですけどね。

 福島みずほ (話題を変更)」

アンパンマンらしからぬ硬派な発言に福島先生もびっくり!

風は蕭々(しょうしょう)として易水寒く(つめたく)

壮士ひとたび去かば復たび還らず

秦の始皇帝暗殺を請け負った荊軻が読んだ有名な詩。悲痛な決意が伝わります。アンパンマンのテーマソングはこれと同じ意味だったw)

 

やなせ 僕もすごく弱い人間で、怖いことからすぐ逃げ出してしまう。でもやらなくちゃいけない時があるんです、どうしても。(中略)

 アンパンマン自体はとても弱い。他のヒーローと比べても最も弱い。ちょっと顔がゆがんでも、もうだめですから。それぐらい弱いんだけど、ここぞという時は戦うとうことではないのかな。つまり、いつもずっと弱くて逃げてばかりではダメで、どうしてもこの一線はゆずれないという時は戦わなくてはいけないんですね。

 福島 ご本を読んでも、やなせさんの優しい部分とすごくユーモラスな部分と、硬骨漢の部分が出ていて面白かったです。」

(やっぱり、ドラえもんはダメだ!安易な人間になる。だからドーンのビジネスマンを書いたのでしょうか?俺は弱くても戦う。アンパンマンのように!やなせさんは、ウルトラマンが町を破壊するのが気に食わなくて、食糧援助するアンパンマンを思いついたようです。)

 

福島先生の本は労働組合の辺は面白く読めました。憲法は読んでません。

俺たちの戦いはこれからだ! 資本論12(ラスト)

資本論は全3巻。

私の読んでいる日本共産党社会科学研究所監修のものですと、

資本論1巻(1~4分冊)

資本論2巻(5~7分冊)※この巻は薄い

資本論3巻(8~12分冊)

 

以下は資本論の刊行の概略です。

1867(49歳) 「資本論」第1巻刊行

1883(64歳) 死去

1885(死後2年) エンゲルス資本論」第2巻刊行

1894(死後11年) エンゲルス資本論」第3巻刊行

 

ですので、「資本論1巻はマルクスが書いてマルクスが編集して、リライトもしている。資本論2巻はマルクスが書いて、エンゲルスが編集している。」

と言えると思います。

 

ですが、資本論3巻については、「1巻をリライトして、2巻を書いている、それ以外の理論の塊」という感じです。マルクス資料集なんだと思います。(エンゲルスも3巻は形にするのに苦労したのだと思います。)

資本論1巻:剰余価値

資本論2巻:資本の回転

資本論3巻:恐慌理論?

と漠然とイメージしておりましたが、私が読む限り、恐慌理論のようなものは発見できませんでした。(ベルセルクのガッツの手がちぎれるのを、待ち焦がれるようにして読みました。)

 

正直に言いますと、資本論1巻(1~4分冊)だけ読めば、十分に思います。本棚に並ぶ12冊の塊を前に挫折された方は多いと思います。私も4.5割は読めてないと思います。ひたすら眠くなります。資本論が1巻だけ世に出ていれば、もう少し読まれたり、読み返されたりしていたような気もします。ただ、これは歴史の綾ですし、エンゲルスの頑張りを否定することはできません。

 

それでは以下は参照です。

「さらに、この場合には(※労賃、利潤、地代が諸商品の価値を構成すること)いっさいの価値概念が消えてなくなるということも明らかである。なお残るのは、ある量の貨幣が労働力、資本、および土地の所有者たちに支払われるという意味での、価格の観念だけである。しかし、貨幣とは何か?貨幣は物ではなく、価値の一定の形態であり、したがってやはり価値を想定する。そこで、一定量の金または銀が右の生産諸要素[労働力、資本、および土地]に支払われるか、または右の生産諸要素が頭のなかでこの一定量の金または銀に等置される、と言うことにしよう。しかし、金および銀は(そして啓蒙経済学者はこれを認識したと誇っている)、他のいっさの諸商品と同様にそれ自身商品である。したがって、金銀の価値もまた、労賃、利潤、および地代によって規定されている。(※改行は適当に追加、原文は改行無)

 

したがって、われわれは、労賃、利潤、および地代を、それらが一定分量の金銀に等置されるということによって規定することはできない。というのは、労賃、利潤、および地代は自分自身と等価にあるものとして、この金銀の価値で評価されなければならないが、この金銀の価値こそは、まさに労賃、利潤、および地代によって、金銀とはかかわりなく、すなわち、まさに右の三つの部分の生産物であるどの商品の価値ともかかわりなく、まず第一に規定されなければならないからである。したがって、労賃、利潤、および地代の価値とは、それらば一定分量の金銀に等しいということであると言うとすれば、それは、ただ、労賃、利潤、および地代は一定分量の労賃、利潤、および地代に等しいと言うことを意味するにすぎないであろう。」

(禅問答。「労賃、利潤、地代が諸商品の価値を構成すること(アダム・スミス)」に対する批判なんだと思います。もうアダム・スミスは読みたくない。ただ資本論は古典派経済学を批判するのが主の目的。)

 

とりあえず、次は「マルクス主義法王」と呼ばれるカウツキーを読みたいと思います。

幼児化する社会。悪のいない世界。

障害者の話は、右は「これが現実だ。障碍者は我慢しろ。」

左は「障碍者が差別されるとは大変だ!」

という感じに思います。そして、ハテナは左が強いと思っていましたが、

この件は、右が強いようです。

anond.hatelabo.jp

この増田は複雑な、否定とも肯定ともとれない心境を吐露しています。

否定が強い気もしますが、それは「自分の身内の否定になるので、

そこまで覚悟を決めてない。」ぐらいに感じます。

 

私が一番気になったのは、以下のトップコメです。

keshimini 声をあげる人がいるから社会が変わる論はまあ否定しないけど、その対象は社会みたいな大きな単位にするべきで、限られたリソースで懸命に働いている現場の人間に義務以上の負担をかけるやり方は、俺は否定的に見る。

 

障害者の世話、しかもルーチンワークではない、人間が相手の作業。確かに面倒でやりたくない気持ちは理解できます。何の得もない作業でしょう。

どんな仕事でも裁量の範囲は存在し、リソースをどう割り振るか、休憩時間を削るのか、明日に持ち越すのか、その判断は自分の職場での評価になるでしょう。

そんな世界に生きる我々が、少々劣った人間の世話にリソースを割り振る。俺にはそんな余裕はない。自業自得だ。

こんな感じなんでしょうか?

 

いまの社会は、仕事にリソースを吐かせ過ぎだと思います。

困っている人を助ける。確かに、自分が助けてほしいぐらいの人が、誰かを助けるのは難しいかもしれません。しかし、それが「仕事をしてるから、困ってる人を助けられない。」は異常な社会だと思います。

人間の本能や、攻撃的な態度というのは、忙しい時には出てしまうと思います。

それでも「接客業の人間が、障碍者を対応できない」は異常な仕事の強度だと思います。

 

もう一点あるのが、「俺は働いてるから偉いんだ。正義とかのくだらんお遊びは、よそでやってくれ。」という幼稚な態度です。

正義とか道徳よりも、お金を稼ぐことが上位の価値観になっているのは、非常に幼稚ではありませんか?

お金を稼ぐことが良いことなら、弱者からお金をむしり取ることも当然、肯定されます。障碍者を排除して、労働環境をスマートにするとは、サービスに線を引いて、コストを下げているのでしょう。

幼児には悪が何かが理解できないのです。道徳とお金を総合的に判断できないのです。

 

幼児だから同じことを繰り返すのです。「俺は労働をやっているんだ。障碍者にかまってる暇はないんだよ。」下の悪人と同じです。

「「十五年前に私は高利反対論を書いた。というのは、当時すでに高利は非常にはびこっていて、私にはなんの改善も望めないほどであったからである。それ以来高利は思い上がり、いまではもはや悪徳や罪悪や恥辱であることに甘んじないだけでなく、あたかも人々にたいして大いなる愛とキリスト教的奉仕とを施しているかのように、まったくの美徳であり、また名誉であると自慢するようになった。恥辱が名誉となり、悪徳が美徳となったからには、いったいなにに救いを求めたらよいのか」(『牧師諸氏に、高利に反対するように説く』、ヴィッテンベルク、1540年)」

(時代が変わっても、悪の典型的な型は、普遍。自分を正しいと信じて、弱者をむさぼる。)