読書感想文27「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(クソゲーがくそでおもしろい)

資本主義が発展しているエリアとして、アメリカやイギリス、ドイツがあげられると思います。逆に、イタリア、フランスなどは文化的といいますかラテン系ののりを感じます。

お国柄の違いなのでしょうか?実は、キリスト教の宗派(プロテスタント)が関係しているのでは?と考えたのがマックス・ヴェーバーのこの本になります。

 

プロテスタントとは、ルターが免罪符(贖罪符)を批判して、「聖書に書いてない、聖書に帰ろう!」というところから生まれました。このことは良い事なんだと思います。ルターさんは資本主義を生み出すつもりはまったくなかったと思います。

 

それでは、以下参照です。

「というのも、隣人の罪悪に対するばあい、選ばれた者、つまり聖徒たちが神の恩恵に応えてとるべきふさわしい態度は、自分の弱さを意識して寛大に救助の手をさし伸べるのではなく、永遠の滅亡への刻印を身におびた神の敵への憎悪と蔑視となったからだ。」

(「予定説」による裂け目。現在の苛烈な自己責任論にもつながります。)

 

「私は懸念しているのだが、富の増加したところでは、それに比例して宗教の実質が減少してくるようだ。それゆえ、どうすればまことの宗教の信仰復興を、事物の本性にしたがって、永続させることができるか、それが私には分からないのだ。なぜかといえば、宗教はどうしても勤労(industry)と節約(frugality)を生み出すことになるし、また、この二つは富をもたらすほかはない。しかし、富が増すとともに、高ぶりや怒り、また、あらゆる形で現世への愛着も増してくる。だとすれば、心の宗教であるメソジストの信仰は、いまは青々とした樹のように栄えているが、どうしたらこの状態を久しく持ちつづけることができるだろうか?」

(宗教や思想の弱点。悩みがなくなると不要になってしまう。まあ、煩悩にまみれながらキレるしかないのでしょうか?)

 

「それはそうとして、こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」》letzte Menschen《にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。ー」

(悩み苦しみながら発展してきた人類。現在の資本主義は、禁欲精神も天職観念も亡霊と化しています。私自身も、「クソゲーがくそでおもしろい。」ぐらいの感覚で資本主義を回しています。虚無の運動だけが残る資本主義。)

 

「ピュウリタンは天職人たらんと欲した ーわれわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人 ー直接経済的営利にたずさわる人々だけではなくー の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう」

(確かに資本主義の支配は強力だと思います。しかし、一東洋人として考えると、これが最後の最後まで続くとは到底思えません。単に今が白人の時代なだけだと思う。それが終われば資本主義も終わると思う。大きな国は全部滅んできたでしょ?)

 

私は、この本を読んで、「資本主義=西洋思想」とおもいました。

今は西洋の時代だと思いますが終わりは近いでしょう。

それともみんな英語を使う時代になるのでしょうか?

かったるくて、耐えられないですよね?

読書感想文26「アダム・スミス」(神とは言ってない)

著者:堂目卓生

 

マルクスを理解するためには、アダム・スミスも理解しないといけないので、結局、「国富論」(「諸国民の富」と習った世代です。)を読もうとしております。

いつものように外堀を埋めるために読んでみました。

 

まずとても大切なことは、アダム・スミスの超有名な言葉で、

「見えざる手」というのがあります。

この言葉は「神の見えざる手」と言われる方が一般的に思いますが、

アダム・スミス本人は「見えざる手」としか言っていないようです。

「市場に任せておけばいい。市場は神だ。規制緩和だ!」

というイメージは明確な誤りです。

 

「見えざる手」というといかがわしい感じも匂ってきます。

いかがわしいものに神を感じる人がそのような言葉を作ったのでしょう。

 

 

それでは以下参照です。

「農村の美しさ、田園生活の楽しさ、それらが約束する心の平穏、そして不当な法律によってじゃまされないかぎり与えられる独立心、これらは多かれ少なかれ万人を引きつける魅力をもっている。そして、土地を耕作することこそ人間の本来の運命であったのだから、人類の歴史のあらゆる段階において、人間は、この原初の仕事への愛着をもち続けているように思われる。(『国富論』3編1章)」

アダム・スミスは「道徳感情論」という本も書いています。むしろ、経済学が存在しない時代の人なので、「道徳の先生」というのが正しい気がします。アダム・スミスは誰の心の中にも「公平な観察者」がいることを説きます。だから自分に嘘はつけないんですね。

 そんなアダム・スミスが書く伸びやかな農業への憧れ。)

 

「長期国債によって資金調達を行う方法をとった国は、すべて、しだいに弱体化していった。最初にそれを始めたのはイタリアの諸共和国だったようである。ジェノヴァヴェネツィアは、それらのうちで、今なお独立国と称しうるただ二つの国であるが、ともに、国債のために弱体化してしまった。スペインは、国債による資金調達の方法をイタリアの諸共和国から学んだようであるが、税制が、イタリア諸共和国よりも思慮に欠けたものであったため、本来の国力の割には、イタリア諸共和国よりもさらに弱体化した。[中略]フランスは、その自然資源の豊かさにもかかわらず、同種の重い財政負担のもとにあえいでいる。オランダ共和国は、国債のために、ジェノヴァヴェネツィアと同じくらい衰弱している。他のどの国をも弱体化させた資金調達の方法が、グレート・ブリテンにおいてだけ、まったく無害だということがありうるだろうか。(『国富論』五編三章)」

(日本の国債も無茶苦茶。アメリカもやばいと思う。(アメリカは、国民性が借金大好き!)歴史は繰り返す。)

 

「人間本性の仕組みからいって、苦悩は決して永遠のものではありえない。もし人が苦悩の発作に耐えて生き続けるならば、彼はまもなく、何の努力もなしに通常の平静さを享受するようになる。木の義足をつけた人は、疑いもなく苦しむし、自分が生涯、非常に大きな不便を被り続けなければならないことを予見する。しかしながら、彼はまもなく、その不便を公平な観察者たちがそれを見るのとまったく同じように見るようになる。すなわち、彼は、そのような不便を背負っても、一人でいるときに得られる普通の喜び、そして仲間といるときに得られる普通の喜びを、ともに享受できると考えるようになる。彼は、まもなく自分自身を胸中の理想的な観察者と同一視し、彼自身が自分の境遇についての公平な観察者になる。弱い人がはじめうちはそうすることがあるのと違って、彼は、もはや泣かないし、嘆かないし、悲嘆にくれない。公平な観察者の見方が完全に習慣的なものとなるため、彼は、何の努力もなしに、自分の非運を、公平な観察者以外の見方で見ようとはしなくなるのである。」

(人間に対するゆるぎない信頼。自分の内にある神と、人間は何の努力もなく、一体化することができる。)

 

アダム・スミスは真の幸福は「心の平穏」と考えていたようです。

国富論」は、植民地主義重商主義)に対する反論として書かれているようです。

そして、アダム・スミスアメリカの独立に賛成だったようです。

読書感想文25「身の丈の経済論 ガンディー思想とその系譜」(偉大なる魂)

有名な絵だと思うのですが、「チャルカー(糸車)で糸を紡ぐガンジー」に惹かれて、読んでみました。加えて、以下のような共産主義に対する嗅覚も働いています。

マハトマ・ガンディー(非暴力・不服従

ジャワハウラール・ネルー共産主義者でインドの首相、「日露戦争のすぐ後の結果は、一握りの侵略的帝国主義グループにもう一国を加えたというに過ぎなかった」とか厳しい。)

チャンドラ・ボース(名前だけ知っている。wikiを読んだら、the風雲児って感じ!)

 

以下参照です。

ヴェーバーは、現世内の家族、財産、政治、経済、芸術、恋愛などあらゆる人間関係から生じる社会的・心的束縛から完全に離脱して宗教的救済を得ようとする行為を「現世逃避的禁欲」と呼び、他方、現世秩序内部に留まって世俗的職業労働に専念することにより、宗教的救済を得ようとする行為を、「現世内的禁欲」と呼んだ。そのうえで、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教などにおける修行僧の生き方に「現世逃避的禁欲」の類型を、またキリスト教、とりわけプロテスタンティズムにおける職業倫理に「現世内的禁欲」の類型をみいだして、後者のなかから資本主義の発生につながる「合理的生活態度」を抽出した。」

(日本やアジア・インドなどは、人生に嫌になったら、出家、解脱、引退、異世界転生って感じですが、西洋では苦しい時こそ仕事頑張ろうみたいな感じなんでしょうか?苦しい時に、筋トレする現代人は、西洋かぶれなんでしょうか?宗教感はとても感じますがw、「どんな時でも筋トレだ!筋力は全てを解決する!」←解脱してるね。)

 

「中村によれば、ガンディーは手紡ぎとカーディーの生産に三つの積極的側面を認めているという。それはつまり、経済的には職を失った手工業者の救済、道徳的には労働による怠惰の追放、そして政治的にはスワデーシー(国産品の愛用。外国製品の不買運動。)の樹立した段階において市民的不服従によりインド政府を屈服させる前提条件となること、である。」

(人間には労働が必要だと思います。ニートは、労働の疎外感が大きくなりすぎていることも考えないといけない。みんなで楽しく労働。)

 

シューマッハーは、ガンディーを「精神性と矛盾しない経済学の体系は存在していないのに、精神性に立脚した経済学を実践している経済学者」とみていた。」

「ところが当のセンは、倫理を重視する点でガンディー思想と共鳴する部分をもちながら、かならずしも環境と調和した人間の簡素な生き方を想定するものではない。むしろ彼は、グローバルな経済発展によって世界の貧困を解決しようと考える立場から、身の丈の経済を志向するガンディーにたいしては批判的である。」

(現在の経済学とは、どうすれば効率が良くなるか?とか、どうすれば市場が拡大するのか?とかをやっているんだと思います。それは、「資本の増大は善」と考える倫理観が根底にあるのだと思います。今を生きる我々は、どうも宗教や倫理みたいなものからあまり縛られず、「資本の増大は善」に縛られて生きているようです。少なくとも、資本が増大しても、貧困は解決しません。なぜなら、増大した資本主義は増大した貧乏人が基盤に必要だからです。)

 

ガンディーは共産主義者とは、敵対的だったようです。

それはガンディーが「受託者(良識的な貧乏人のために動ける金持ち)」というパトロンを持ち、「体制を擁護している」と批判されたようです。

しかし、金持ちが倫理観を持ち、お金を貧乏人に回すようにすることはとてもいいことだと私は思います。また、非暴力の精神があります。革命やストが好きな共産主義者よりも、一枚上手のように感じます。

 

そして、宗教や倫理や道徳と経済は不可分なものだと私は思います。

「成長すればそれでいい」みたいな価値観は、間違いなく後世に生きる人間から侮辱や「野蛮だったねー。あほだったねー。」という感想を抱かせるでしょう。

読書メモ1「パンクの系譜学」(マルクスの思想の広がり)

私は音楽は、人気曲を聴くぐらいなんですが、どうもパンクというジャンルの音楽は、マルクスの思想から派生しているようです。というわけで、パンクの系譜学という本を読んでみました。桜玉吉先生の、

「ウイアーモッズ!ウイアーモッズ!ドントトラストオーバーサーティー!!!」

ぐらいしか知らないです。

 

 

「二人のブティック(レット・イット・ロック)は、バンドを文化的、政治的な記号の数々で包むことで、パンクを破壊と混乱の場として位置づけることに貢献した。このブティックから生まれた服や小物は、あからさまな性的表現やフェテェシズム、ナチスマルクス、スペイン内戦時のアナキスト、ブエナベントゥーラ・ドゥルティ、シチュアシオニストやキング・モブといった急進的かつ、過激な政治思想、反宗教、バイカー、ロックンロールが混在しつつ、並列に扱われていた。中でも性的な表現に関してマクラーレンは、シチュアシオニストカウンターカルチャーの世界で再評価されていたドイツの精神分析家ヴィルヘルム・ライヒの、社会の問題の根底には性的抑圧があるといった言説を取り上げ、「英国生活に焼き付けられた抑圧的な態度に正面から立ち向かう理論的根拠を与えた」とその影響を振り返っている。」

マルクスの思想は反権力・危険思想として、いろいろ影響を与えているようです。「社会問題の根底には性的抑圧がある」は面白い言葉だと思います。江戸時代とか性的に開放されてたイメージがあるので、いい時代だったのでしょうw)

ジャスティス

最近は、フランス革命についての本を読むのがブームです。

当然、マルクスを理解するために読んでおります。

 

小林よしのり先生の「民主主義という病い」を読んでいるのですが、おもしろい記述がありました。

アメリカは、「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」

イギリスは、「白人の責務」

フランスは、「文明化の使命」

の名の下に植民地を拡大した。

 

本当におそろしいですねwアメリカは今も「民主主義を輸出する!」みたいなことやってるのがおそろしいwやっぱり自分の事を正しいと思ってるやつはおそろしいw

イースター島から人間がいなくなりモアイ像だけが残った理由を思い出せ!

 

蛇足ですが、我らが日本も、

五族協和

「八紘一宇

の名の下に戦争をしていたので、複雑な感情が呼び起されます。