「前門の虎、後門の狼」でマウントを取れる時代

古文・漢文にはメリットがないのでしょうか?

m-dojo.hatenadiary.com

 

この方のブログをさらりと見たのですが、「俺はいろいろ知っている。誰誰が何々を言っていた」みたいな情報を張り付けたり、「俺の判断は正しい」みたいなマウントを取ったりしてる風味を感じました。議論するのも好きなようです。得意の情報で相手を倒しています。

 

まず、考えていきたいのは「勉強する」と言ったときに何をするのでしょうか?

風雲児たち」の中を見ますと、例えば、西郷さんが手にけがをして、武士として厳しい感じになった時に、論語などを読んで、「これからはこっちでがんばろう。」みたいな描写があります。このころは勉強と言えば論語だったのでしょう。

そもそも論語事態が、孔子先生がさらに古い時代の書物?を読んで、学び・教えたことの記録なんだと思います。

私は「勉強する」とは、「昔の人がやったことを参考に考える。」のが基本だと思います。(会社とかでも昔のデータ見たりしますよね。)古い時代の書物を読む経験は絶対に必要だと思います。

 

さらに、論語の内容なんですが、知識や情報的なものではなくて、「人間はこうあるべきだ。なぜなら、、、」、「誰誰は良い人だ。なぜなら、、、」みたいな普遍的な事が書かれていて、なおかつ、結構面白いんです。だから2千年以上読まれているのだと思います。そんな昔から読まれている事それ自体が価値を持つと思います。

 

漢文はいらないと言っているブログの方は「勉強」とは、換金性が高く、他人にマウントがとれて、最新の情報をより効率的に得ることだと思っているのではないでしょうか?。

昔の時代は、学問をすることは大変でした。日々の生活があり、時間もありません。学問をするには金と時間が必要でした。高い志がなければやれません。

現在の学問は、金と時間は多少あっても、余裕のないものには、魅力的に映らないのかもしれません。

それか、志が低いのでしょう。