マルクスの考える革命(現実的な資本主義への適応)

マルクスは窮乏の中に窮乏を見たのではなく、その胎内に生まれてくるより良い未来の胚芽をも見たのであった。つまり、彼は工場制度を「非難したり」、「弾劾した」のではなく、それを「研究」したのである。したがって、彼にとって問題なのは「道徳的判断」ではなく、「研究」である。それだからこそ、彼は、近代的工場制度の革命的側面を最初に認識した先駆者ロバート・オーウェンにわれわれの注意を促したのであった。したがって、われわれもまた、近代的工場制度の革命的側面を次のように認識しなければならない。」

こちらは、「マルクス主義の法王(教皇)」と呼ばれるカウツキーの言葉です。

教皇が、イエスキリストの代理人と呼ばれるので、それに倣っているのでしょう。)

マルクスの経済学説(カウツキー)」より参照しています。

私の読めなかった資本論の世界が広がっていますw

 

 

上記の「革命的側面」の続きです。

「(前略)近代的生産様式は、むしろ社会のあらゆる階層をかき混ぜ混交し、不断の運動状態に置くような渦の如きものである。一切の伝統的な生産関係とともに、伝統的な先入観もまた破壊される。だが、それに代わる新しい生産関係それ自体も少しも固定的なものでなく、たえざる変動に委ねられている。したがって、次々と新しい発明や労働方法が現れ、大量の資本や労働がひとつの生産部門から他の生産部門に、ひとつの国から他の国に絶え間なく移動する。こうして、生産関係の固定制やそれに対する一切の信仰といったものが消滅することになる。また保守的要素は取り除かれ、農民は今日歴史的動力が集中している大都市に追いやられる。だが、彼らはそこで運動を妨害するのではなく、運動に加担する。他方、夫人と児童は工場に引き込まれ、ブルジョア的家族の保守的要素は解体される。そして家事を行う主婦は、生きるために闘う職業的な婦人労働者になる。」

(資本主義が巻き起こす革命。旧秩序の解体。陳腐化。そして、その上に作った制度すらも、変動する。永遠の不安定。無限に続く合理化。終わらない悪夢。まさに我々の生きる現在です。)

 

そして、革命の中にある種の希望が見えてきます。

「今やわれわれの眼前で進行しているこうした古いものの完全な解体の中に、すでに新しいものの胚芽が現れているのである。

 長期にわたる一面的に偏った労働の結果、生年労働者の白痴化の増大が生じた。そのために、すべての工業国はこれやあれやの形態で初等教育を労働の絶対的条件と宣言せざるをえなくなった。それ以来、工場で労働する児童もまた正規の通学児童と同様に、否むしろ彼ら以上により良くかつより容易に就学しているという事実が見いだされるようになっている。ある工場監督官は、つぎのように主張している。「事態は簡単である。学校に半日しかいない生徒たちは、つねに新鮮であって、ほとんど何時でも授業を受けいれることができ、また受けいれようとしている。半労半学の制度は、労働と授業との各々を他方から見れば休息および気晴らしたらしめ、したがって児童にとっては、両者の一方を中断なくつづける制度よりもはるかに適切である」(マルクス資本論』第一巻、608ー9頁)、と。

 マルクスはこれに次のように付言している。「詳しいことはロバート・オーウェンを研究すればわかることだが、将来の教育 ー社会的生産を増大するための一方法としてのみならず、全面的に発達した人間を生産するための唯一の方法として、特定の年齢以上のすべての児童のために生産的労働を知育および体育と結びつけるであろうところの、将来の教育ー の萌芽は、工場制度から発生したのである。(マルクス資本論』第一巻、609頁)」」

(半労半学の制度と聞いて、私が思い浮かべたのは「松下村塾」。ここでは、野良仕事をしながら松陰先生と共に勉強していた様子。その効果は、1年半の教育で、維新の原動力となる人材を多数輩出した。ずっと仕事(パソコン)してると脳が、仕事を拒否する。その辺走りたくなる。)

 

カウツキーさんの話はとても分かりやすいです。

そして、マルクスに対する尊敬の念があふれています。

そして私のように、マルクスのおもしろ悪口を探すのではなくて、

マルクスを正確に理解していると思います。