俺たちの戦いはこれからだ! 資本論12(ラスト)

資本論は全3巻。

私の読んでいる日本共産党社会科学研究所監修のものですと、

資本論1巻(1~4分冊)

資本論2巻(5~7分冊)※この巻は薄い

資本論3巻(8~12分冊)

 

以下は資本論の刊行の概略です。

1867(49歳) 「資本論」第1巻刊行

1883(64歳) 死去

1885(死後2年) エンゲルス資本論」第2巻刊行

1894(死後11年) エンゲルス資本論」第3巻刊行

 

ですので、「資本論1巻はマルクスが書いてマルクスが編集して、リライトもしている。資本論2巻はマルクスが書いて、エンゲルスが編集している。」

と言えると思います。

 

ですが、資本論3巻については、「1巻をリライトして、2巻を書いている、それ以外の理論の塊」という感じです。マルクス資料集なんだと思います。(エンゲルスも3巻は形にするのに苦労したのだと思います。)

資本論1巻:剰余価値

資本論2巻:資本の回転

資本論3巻:恐慌理論?

と漠然とイメージしておりましたが、私が読む限り、恐慌理論のようなものは発見できませんでした。(ベルセルクのガッツの手がちぎれるのを、待ち焦がれるようにして読みました。)

 

正直に言いますと、資本論1巻(1~4分冊)だけ読めば、十分に思います。本棚に並ぶ12冊の塊を前に挫折された方は多いと思います。私も4.5割は読めてないと思います。ひたすら眠くなります。資本論が1巻だけ世に出ていれば、もう少し読まれたり、読み返されたりしていたような気もします。ただ、これは歴史の綾ですし、エンゲルスの頑張りを否定することはできません。

 

それでは以下は参照です。

「さらに、この場合には(※労賃、利潤、地代が諸商品の価値を構成すること)いっさいの価値概念が消えてなくなるということも明らかである。なお残るのは、ある量の貨幣が労働力、資本、および土地の所有者たちに支払われるという意味での、価格の観念だけである。しかし、貨幣とは何か?貨幣は物ではなく、価値の一定の形態であり、したがってやはり価値を想定する。そこで、一定量の金または銀が右の生産諸要素[労働力、資本、および土地]に支払われるか、または右の生産諸要素が頭のなかでこの一定量の金または銀に等置される、と言うことにしよう。しかし、金および銀は(そして啓蒙経済学者はこれを認識したと誇っている)、他のいっさの諸商品と同様にそれ自身商品である。したがって、金銀の価値もまた、労賃、利潤、および地代によって規定されている。(※改行は適当に追加、原文は改行無)

 

したがって、われわれは、労賃、利潤、および地代を、それらが一定分量の金銀に等置されるということによって規定することはできない。というのは、労賃、利潤、および地代は自分自身と等価にあるものとして、この金銀の価値で評価されなければならないが、この金銀の価値こそは、まさに労賃、利潤、および地代によって、金銀とはかかわりなく、すなわち、まさに右の三つの部分の生産物であるどの商品の価値ともかかわりなく、まず第一に規定されなければならないからである。したがって、労賃、利潤、および地代の価値とは、それらば一定分量の金銀に等しいということであると言うとすれば、それは、ただ、労賃、利潤、および地代は一定分量の労賃、利潤、および地代に等しいと言うことを意味するにすぎないであろう。」

(禅問答。「労賃、利潤、地代が諸商品の価値を構成すること(アダム・スミス)」に対する批判なんだと思います。もうアダム・スミスは読みたくない。ただ資本論は古典派経済学を批判するのが主の目的。)

 

とりあえず、次は「マルクス主義法王」と呼ばれるカウツキーを読みたいと思います。