幼児化する社会。悪のいない世界。

障害者の話は、右は「これが現実だ。障碍者は我慢しろ。」

左は「障碍者が差別されるとは大変だ!」

という感じに思います。そして、ハテナは左が強いと思っていましたが、

この件は、右が強いようです。

anond.hatelabo.jp

この増田は複雑な、否定とも肯定ともとれない心境を吐露しています。

否定が強い気もしますが、それは「自分の身内の否定になるので、

そこまで覚悟を決めてない。」ぐらいに感じます。

 

私が一番気になったのは、以下のトップコメです。

keshimini 声をあげる人がいるから社会が変わる論はまあ否定しないけど、その対象は社会みたいな大きな単位にするべきで、限られたリソースで懸命に働いている現場の人間に義務以上の負担をかけるやり方は、俺は否定的に見る。

 

障害者の世話、しかもルーチンワークではない、人間が相手の作業。確かに面倒でやりたくない気持ちは理解できます。何の得もない作業でしょう。

どんな仕事でも裁量の範囲は存在し、リソースをどう割り振るか、休憩時間を削るのか、明日に持ち越すのか、その判断は自分の職場での評価になるでしょう。

そんな世界に生きる我々が、少々劣った人間の世話にリソースを割り振る。俺にはそんな余裕はない。自業自得だ。

こんな感じなんでしょうか?

 

いまの社会は、仕事にリソースを吐かせ過ぎだと思います。

困っている人を助ける。確かに、自分が助けてほしいぐらいの人が、誰かを助けるのは難しいかもしれません。しかし、それが「仕事をしてるから、困ってる人を助けられない。」は異常な社会だと思います。

人間の本能や、攻撃的な態度というのは、忙しい時には出てしまうと思います。

それでも「接客業の人間が、障碍者を対応できない」は異常な仕事の強度だと思います。

 

もう一点あるのが、「俺は働いてるから偉いんだ。正義とかのくだらんお遊びは、よそでやってくれ。」という幼稚な態度です。

正義とか道徳よりも、お金を稼ぐことが上位の価値観になっているのは、非常に幼稚ではありませんか?

お金を稼ぐことが良いことなら、弱者からお金をむしり取ることも当然、肯定されます。障碍者を排除して、労働環境をスマートにするとは、サービスに線を引いて、コストを下げているのでしょう。

幼児には悪が何かが理解できないのです。道徳とお金を総合的に判断できないのです。

 

幼児だから同じことを繰り返すのです。「俺は労働をやっているんだ。障碍者にかまってる暇はないんだよ。」下の悪人と同じです。

「「十五年前に私は高利反対論を書いた。というのは、当時すでに高利は非常にはびこっていて、私にはなんの改善も望めないほどであったからである。それ以来高利は思い上がり、いまではもはや悪徳や罪悪や恥辱であることに甘んじないだけでなく、あたかも人々にたいして大いなる愛とキリスト教的奉仕とを施しているかのように、まったくの美徳であり、また名誉であると自慢するようになった。恥辱が名誉となり、悪徳が美徳となったからには、いったいなにに救いを求めたらよいのか」(『牧師諸氏に、高利に反対するように説く』、ヴィッテンベルク、1540年)」

(時代が変わっても、悪の典型的な型は、普遍。自分を正しいと信じて、弱者をむさぼる。)