究極の金融商品 資本論11

ギャンブルの王様は何か?」

この質問に、日本最強のギャンブラー阿佐田哲也は答えています。

「競輪」

(ひりつく具合がよいらしいです。運と戦略のバランスが程よいようです。)

 

では、マルクスが一番嫌いな金融商品はなんでしょうかw?それこそ究極の金融商品でしょう。以下参照です。

 

「(借地農場経営者は)土地を改良し、その生産物を増加させ、土地を単なる物質から土地資本に転化させる。耕作された農地は、同じ自然的な質の未耕の原野よりも、価値が大きい。土地に合体された、比較的恒久的で、比較的長い期間をかけて利用され尽くす固定諸資本も、その大部分が、特定の諸部面では往々にしてその全部が、借地人によって投下される。しかし、契約で決められた借地期間が過ぎれば、 ーそしてこれが、資本主義的生産の発展につれて、土地所有者が借地期間をできるだけ短縮しようとする理由の一つであるがー 、土地に合体された諸改良は、実体である土地の不可分な偶有的属性として、所有物として、地主のものとなる。(中略)これこそは ー本来の地代の運動はまったく別としてー 、経済的発展が進むにつれて、土地所有者たちの富がますます増大し、彼らの地代が絶えず膨張し、彼らの地所の貨幣価値が増大する、秘密の一つである。こうして彼らは、自分たちがなにも手を貸さずに生み出された社会的発展の成果を、彼ら個人のポケットにしまい込む ー”天のたまものを浪費するために生まれた”者たちである。」

マルクスは「地代」を研究しています。主としては、農地を研究しています。住宅地や商業地ではないです。しかし、土地の持つ魔力に迫っています。)

 

このように、土地に使用される資本が多ければ多いほど、一国における農耕と文明一般との発展が高ければ高いほど、一エーカーあたりの地代も地代総額もますます増加し、社会が超過利潤の姿態で大地主たちに支払う貢物もますます巨大になる ーひとたび耕作圏内に引き入れられた土地種類のすべてが競争能力を保持する限りは。この法則は、大地主階級のおどろくべき生命力の強さを説明する。これほど浪費的な生活をする社会階級は他にはないし、この階級ほど、伝来の「身分相応な」ぜいたくをする権利を ーそのための貨幣がどこからこようとおかまいなしにー 要求する階級はなく、この階級ほど、気楽に債務に債務を積み重ねる階級はない。しかもなおこの階級は、いつもうまく切り抜ける ー土地に投下された他人の資本、資本家がそれから引き出す利潤とはまったく不つり合いな地代をかの階級にもたらす他人の資本のおかげで。」

(土地の持つ魔力、投資すればするほど、それは大きな地代になる法則。(投資しすぎて無駄になることがない。)この魔力によって、土地バブルは発生するのでしょう。また、バブルのつけは、うまくやって資本家が払うのでしょう。)

(この理論を説明するために30ページぐらい表の説明が続くのですが、とても分かりにくくて眠くなります。その後でエンゲルスが、今まで説明は適切な数字ではなかったので、分かりやすい数字に私が修正しました。という感じで簡単に説明してくれます。マルクスの誤った数字を乗せる意味が私には理解できない。初めから正しい数値だけで編集すればいいと思う。版を重ねる意味がないと思う。)

 

「すでに過去のものとなった一定の発展段階でこそ斬新でもあれば独創的でもあり、深淵でもあれば根拠のあるのものでもあったことを、もはやそれが平凡となり、時代遅れのものとなり、まちがったものとなっている時代に繰り返すことこそ、まさに俗流経済学を特徴づけるものである。そうすることによって、俗流経済学は、古典派経済学が取り組んできた諸問題に感づきさえしないことを告白する。俗流経済学は、これらの問題を、市民社会の発展のより低い段階でのみ提起されることのできた諸問題と取り違える。自由貿易にかんする重農主義者たちの諸命題を、飽くことなく自己満足的に反芻しているのも(※資本と資本階級との利益と発展、資本主義的生産の発展が、近代社会における国民的な力と国民的優越の土台になっているなど)、同じ事態である。これらの命題は、たとえあれこれの国家の関心を実際上どれほど引くとしても、理論的関心はとっくにすっかり失われてしまっているのである。」

(まるで男系カルトの批判を聞いているようだ。俗流経済学者も男系カルト学者も理論的なことは言えない。壊れたラジオのように時代遅れのスローガンを繰り返すw理論的関心が失われていることを、意気揚々と議論しないで欲しいwマルクスの苦悩がうかがえるw)

 

「ある形式的類似 ーただし、資本主義的生産様式を把握した人にとっては、また、どの貨幣経済のなかにもすぐに資本主義的生産様式を発見するモムゼン氏のような人ではない人にとっては、これは、またすべての本質的な点で、完全に錯覚であると見えるのであるがー このようなある形式的類似は、古代の大陸イタリアでは決して見られず、おそらくシチリアのようなところでだけ見られる。なぜなら、シチリアはローマにとっての農業貢納国として存在し、したがって、農耕は本質的に輸出を目的としていたからである。ここでは、近代的な意味での借地農場経営者が見いだされる。」

マルクスの面白悪口。「どこにでも資本主義的生産様式を発見する人」資本主義の悪口なら何でもいいわけではない。)

 

後1冊まで来ました。

とりあえず、私は、JREAT大好きおじさんになろうと思います。

ちがうかな。